2026-04

2026-04-13

 起きた。
 出席の代わりに授業の感想を書いて出さなくてはならないという段階になって筆記用具を忘れたことに気づいたのだが、誰にも助けを求めることをせず、黙っていた。けっきょく、感想は書かずに帰った。
 経験を重ねて古い層に埋もれたとばかり思っていた自分が顔を出したようで、ほんの少しばかり憂鬱になった。私のこういうところは本当によくないと思う。こういうところというのは、他人のちょっとした協力によって解決される何らかの事態があったときに、手助けを求めることをせず、むしろ、しないことでどこか安心しているところだ。
 筆記用具を貸してもらってもいいかというひと言で済むことをしないでいることには何らかの安定性がある。欲しいものをじっと見つめて、そうすればもらえるかもしれないと思っているのだろうか。昔の私はこういった何も言わないことを美徳のように考えて、ある種の気持ち悪い恭しさをよく発揮していた、と思う。いまもそんなに変わらないことはとても残念だ。

2026-04-14

 講義を聴いていたら鼻血が出てきておどろく。
 ちょうど昼ごろに時間が余っていて、ランチを食べたこともあり、気持ちのいい昼寝をしてしまった。
 濡れた犬みたいな気持ち。
 大学が始まってからというものの、家に帰るのが遅くなっている。まとまった時間があまりないかもしれない。英語の文章を読む授業を受けて、英語をたくさん読みたいねーと思う。
 「明日にはいない私のために昨日より考えている」
 

 現在の自分からすれば未来の自分はほとんど他人のように感じられる。そして、未来の自分は現在の自分ではない他人であるという理由から、現在の自分が未来の自分の利害を無視した行いをすることはよくある。
 たとえば、明後日までに終わらせなくてはならない課題があったとして、寝ることで課題を明日の自分に押し付けることは、今日の自分に利する行いではあるが、明日に起きる自分に利する行いではないだろう。
 しかし、これは害を被る未来の自分は現在の自分ではないから現在の自分には関係がない、と言いながらも、未来の自分を現在の自分と地続きのものとして考えていなければできない発想ではないか。
 当然の話として、他人を害する行いはさしあたりその行いを許容しない理由になる。未来の自分であるところの他人を害することが許容されるように思われるのは、未来の自分にどこか現在の自分と地続きの部分を認めているからだろう。
 これは傲慢ではないか。現在の自分は現在の自分でしかなく、現在の自分が未来の自分を所有することはできない。むしろ、未来の自分に対して、他人のように接するべきではないか、と考えている。私はそう考えることで少し気が楽になった。
 現在の自分が未来の自分の利害を無視することができたのは、未来の自分が厳密には他人ではないからだった。そこで、未来の自分を他人であるとすると、現在の自分は未来の自分に対して何らかの責任を負うことができるようになる。他人を殴ってはいけないのと同様に、未来の自分を害することは控えなくてはならない。そんなことを考えた。
 このことを別の観点から眺めるために次の事例を考えよう。

ゾンビ映画のような事態が起きた。つまり、ゾンビがどこからともなくあらわれて、人間を襲い、ゾンビに噛みつかれた人間はゾンビとなるということが起きた。私と私の友人はそのような世界を共に生き延びている。友人が「もしも私がゾンビに噛まれたならば、たとえ私が殺されることを拒否しているとしても、ゾンビになる前に殺してほしい。ゾンビになってまで生きたいとは思わない」と言い、私も、もしそのような事態になれば殺すことを約束した。はたして、友人はゾンビに噛まれてしまった。しかし、ゾンビに噛まれた友人は死にたくないと言う。私は過去の友人との約束を優先して友人を殺すべきだろうか、それとも、いまの友人の要求を優先して過去の友人との約束を反故にするべきだろうか。

 私には、過去の友人の発言には完全に無視することができないところがあるように思われる。それは過去の友人が「ゾンビになった私には私が私であるために重要であると考えているものがない」と考えているからだろう。このことについてはまだあんまり考えが定まっていない。しかし、私は現在の自分が未来の自分の取り扱いを決めるというのは越権行為であるという方向性の主張をしたいと考えている。
 この事例が分かりにくれば、パーフィットによるロシアの青年の例をみてほしい。
 というか、この話のネタはリンク先の論文なので読むといいだろう。

2026-04-15

 帰りの電車のなか眠い。

2026-04-16

 功利主義について発表をした。
 功利主義は帰結主義・厚生主義・総和最大化という3つの立場に分けることができ、帰結主義は価値の担い手は世界の事態のみであるとしながら、行為を世界の事態を変更することで価値を増減させるものとして重視する立場で、厚生主義は多元的な価値を通約するのに厚生は役立つ基準である立場であり、総和最大化はそういった非道徳的な個人的な価値が集まることで道徳的な価値が生まれるという道徳的な価値の説明でもある。というような話をした、と思う。
 が、準備があんまりできていなかったせいで、あんまりうまくいかなかった。

2026-04-30

 哲学を勉強することによって自分の問いが見えなくなる。そして、自分の問いが見えなくなることは悪いことだ。このことはある種の方法で哲学を勉強することはさしあたり悪いと考える理由になる。このような話がある、と思う。
 しかし、私はあまりこの話を理解していない。そもそも自分の問いとはなんだろうか。それはどこまで重要なものなのだろうか。
 全般的な話として、探求のはじめにもっていた問いが変化することはよくある。ひとたび探求を開始すれば、色んな新しいことを知っていくことになる。色んな新しいことを知れば、何も知らずに最初に立てた問いがそこまで筋のいいものではなかったことが判明することもあるだろう。すると、問いは変化せざるを得ない。この意味で探求のはじめにもっていた問いはそこまで重要ではない。
 ところで「本当のところはどうなっているのか」ということよりも論争を進めることが優先されているという哲学の事態が批判的に指摘されることもある。この批判が妥当な場面はよくあると思う。しかし、「本当のところどうなっているのか」というめんどうな問題を考えなくとも、論争に集中すれば、いずれ「本当のところはどうなっているのか」ということに近づいていくことができるという利点もある、と楽観的に考えている。書いてみて思ったが、これはあまりにも楽観的すぎる。

2026-01-07

 まだ冬休み気分が抜けていない。なんとなくやることがありそうだという予感がある。
 おそらく期末テストに向けてやることがあるのだろう、という推測を立てている。
 ToDoリストを作ったほうがいいのだろうとなんとなく考えているが、そのためにはまずToDoリストを作るためにやる必要のあることのリストがないといけない。そして、それはまだ作られていない。

 しかし、私はなんで日記を書いているのだろうか。たまにふと我に返ったかのように日記を書くことは恥ずかしいことではないか、と思う。けれど、まあ、恥ずかしいことをせずに生きていけるほど私は器用ではないとも思う。あるいは、そのような器用さは誰も持ち合わせることができない種類のものだ、と考える。

 漠然と思い出すこと。昔は花丸に味を感じていたが、いまはその味がどのような味だったのか、もう思い出せないこと。わからないけれど、多くの人は、過去から現在に至るまでの直線の上に記憶を配置していて、そのため、過去の記憶についてそれがいつの記憶なのか、この過去の記憶とこの過去の記憶はどっちがより昔のことなのか、といった質問にすぐに答えることができるのだろう、と勝手に思っている。私にとって記憶は、ひとつの時間軸に沿って綺麗に並べられたものではない。だから、思い出したことについて、それがいつの記憶なのかに思い出すのにはすこし時間かかる。ところで、花丸の味についての思い出は明確にいつのことか思い出すことができる。幼稚園の頃の思い出だろう。

 一般に、何かを主張している人がいたとして、その人はそれを擁護することで、別の何かをも擁護しようとしているのだ、と考えることはあまりよろしくないとされる。
 たとえば、ある哲学者が「リベットの実験を根拠にして自由意志を否定することはできない」という主張を行っていたとして、そのことから、その哲学者は自由意志が存在するという主張を擁護したいからそのようなことを言っているのだ、と考えることは端的に誤りだろう*1。その哲学者は「リベットの実験を根拠にして自由意志を否定することはできない」という主張を行っているのであって「自由意志を否定することはできない」と言っているわけではないし、ましてや「自由意志は存在する」と主張しているわけでもない。
 しかし、このような主張を動機付けるものについての推測は良い方向に働くときもあるだろう。別の言い方をすると、議論の目的を考えることは有意義だろう。
 この世界に自由意志は存在するのかということをめぐる論争において、道徳は自由意志を前提にしているから自由意志がなくてはならないと考えて、自由意志を擁護している人がいたとして、そのような人に、自由意志がなくとも道徳は存在するということを説得的に言うことができたならば、その人が自由意志を擁護する理由はなくなるだろう。自由意志の論争を純粋に自由意志がこの世界に存在するのかという事実についての論争だと考えている人はおそらく少ない。自由意志という概念が重要になってくるのは、自由意志が私たちの生の基本的な枠組みを担っているかのように思えるからであり、そうでないならば、自由意志は私たちにとって重要ではない。このような意味で、主張についてそれを動機付けるものを考えるというのはまったくの無意味ではないように思う。自由意志が重要ではないと分かったならば、原理的にはもっと言い合うことができたとしても自由意志についての論争をやめて、別の重要なことをしたほうがいい。前にブログでもちょっと言ったことだが、あることを言うのに必要なことをなるべく小さくするというのはとてもよいことだと私は考えている。

2025-12-23

 ここ最近はあまり音楽をきいていない。スマホのイヤホンジャックが壊れていて片側からしか音が聴こえないということが理由として大きい。キャンパスの近くに川があるので、そこを音楽を聴きながら歩いたりしてみたいのだが、していない。だから、最近聴いている音楽について何かを言うことは難しそうだ。
 しかし、たくさんの文章を書くことはよい体験だろうし、日記は書き続けたい。
 なので思い出したことをつらつらと書き連ねる。

 昔、おそらく高校生のときのことだろう。車窓を流れる景色を目に焼きつけて、想像できるものの総量を増やそうとしたということをおぼえている。
 それはおそらくこのような理屈に動機付けられていた。たとえば、物語を読んでいて、その物語のなかにコンビニが登場したとする。すると、私の頭のなかにはコンビニのイメージが生み出される。このコンビニのイメージは、私が近所のコンビニを思い出したときに心のなかに生み出されるイメージとほとんど同じである。これはとてもさびしい。想像の外側にあることを想像することはできない、ということに私はそこまで動揺しなかったと思う。想像できることが経験に依存しているならば、自分が経験したことから全てを作り上げているということを忘れるほどたくさんのことを経験すればいい、と考えた。
 このことを意識したのは高校生よりもっと前のことだと思う。シャーロック・ホームズの何かを読んでいて、とすると、これは小学生の頃の記憶なのだろうか、ふと、自分の想像しているベーカー街221Bが自宅をちょっと変えたものでしかないことに気づいて、とても焦ったことをおぼえている。小説を読んで、ここではないどこかに触れたつもりでいたが、その実、今まで見たことのある世界の組み合わせによって生み出されたものだったのである。というわけで、私はとりあえず色んなものをたくさん見ることで、想像できるものを増やそうとした。必要になっているのは色んなものを見ることではなく、色んなものを想像のなかで再現する能力だろう、とも思い、これもたしか、高校生のときのことだろう、私は頭のなかに校舎を思い浮かべて、頭のなかで回転させて遊んだ。
 そういったことをいつしか忘れてしまい、今日にいたる。しかし、考えていることはこのころからあまり変わらないような気もする。真理の対応説と意味の心像説に基づいて、世界の完全なモデルを私の心のなかに作り上げるというプロジェクト、その一環としての新しいことをとにかくたくさん知ろうとする。動機のところはすり替わっているかもしれない。哲学をかじりはじめてから、真理について色々な立場の争いがあることを知り、真理の対応説がすぐさまに採用されるようなものではないことを知った。いまも新しいことを知りたいと思っているが、心のなかに現実と見分けがつかないほど完全な世界を作り上げることができたならば、どのようなことがあろうと生きていけるだろう、ということに動機付けられてはいない、と思う。
 単純に新しいことを知るということは楽しいのだが、なぜだろう。新しいことを知るということはもちろん、新しいことを知る前の自分とは違う自分になるということだ。自己を改造する体験であり、しかも、この改造は基本的に知らなければよかった……という後悔がない。これはあまりにも楽観的すぎる考えだろうか、少なくとも私はいまのところ真理には内在的な価値があると考えているようだ。ほかにもいろいろなことが言えそうだが、いまのところはこれくらい。

2025-12-07

 今日したことと言えば、近くの図書館に行ったことぐらい。

 前の日記を読むと決定論の話をしていたようなので、その続きをしよう。
 たしか戸田山『哲学入門』ではデネットは「決定されていること」と「不可避であること」を区別したということが言われていた。
 私はこの話を次のように理解した。つまり、行為者の視点に立てば、あらかじめ何が起こるのか決まっているとしても、だからといって、何が起こるのかを知っているわけではないので、未来についてこのようなことが起こるかもしれないといった予測を行う。この予測があると未来の不利益を回避する行動をとることができるようになる。そして、自由意志とはこのような未来について予測をして、悪い未来だったならばそれを回避する行動をとる能力だ。
 たしかにこれは決定論と両立している。本当だろうか、どこか騙されているような気がしないでもない。
 ボールがこちらに飛んできたとき、そして、それを私が見たとき、私はそれがどのような軌道を描くのかを予想できる。その予想では私の顔面にボールはあたる。しかし、私が身体を反らすことでボールをよけた、としよう。さらに、あらかじめここまでの一連の動きが決定されていたとしよう。ならば避けるという行動は無駄なのか、そんなことはない。まさに私は身体を反らすことでボールを避けることに成功したのであるから、それらはあらかじめ決定されていたが、だからといって、避けなければ、ボールにあたるだけだ。
 ここまで書いて色々と私も誤解していることがわかってきた。たとえばニューコーム問題とつなげて考えることができると思っていたが、そうでもないようだ。ロボットに自由意志をもたせるためにはどうすればいいのか、という風に考えると見通しがよくなりそうだ。

 デネットを読んだほうがいいかも。

 

飛ぶことが決まっているから飛ぶことができるの

 何度も言っているけれど、両立論的な自由意志を考えるときはたいてい、この歌詞を思い出す。

2025-11-24

 寝るのが遅かったので当然、起きる時間はそれに合わせて遅くなった。
 時間ができたのでその時間を使って『プロジェクト・ヘイル・メアリー(下)』を読んだ。
 ものすごくおもしろい!とは思わなかった。上巻を読んだのがけっこう前ということも関わっていると思う。無論、だからといってつまらないというわけではなかった。
 内容の話をちょっとしよう。寝ないと頭が回らないという当たり前の話をしていて、今日はちょっと寝不足なので、本当にそうだねえ、と思った。また、これは細かいことなのだけど、主人公が自己犠牲の本能は種の保存に役立つから進化したと言っていて、進化は種という単位では動かないのではないか、と思った。
 2限目がはじまりそうなのでコーヒーとパンを買って、ベンチで食べた。地面にドングリがたくさん転がっていたことをおぼえている。
 2限目のことはそこまでおぼえていない。
 お昼休みになると、図書館に向かい、そこで本を読もうとするが、ちょっと寝てしまった。起きて、『リミナルスペース 新しい恐怖の美学』を読む。読み終わったら、今度は昨日に読み終わったばかりの『夢の国から目覚めても』をぱらぱらめくる。いろいろと言いたいことはあるが、しっかりと言えるような気がしないから、言わない。
 わりと良い時間になってきたので電車に乗って帰る。

 決定論のことを思った。
 「決定論的な世界においてはすべてが決まっているのだからすべては無意味だ!」というような怠惰論法じみた主張があるように思う。それはどんな主張なんだろう、と疑問に思っている。まず、決定論的な世界においては、何をしようが結末が定まっている運命論とは異なり、過程までもが決定されている。決定論的な世界は人間が世界に因果的な力を働きかけることができている(できているという言い方はミスリーディングかもしれない)という意味で良いものだが、その働きかけ方があらかじめ決まっているということは悪いことかもしれない。
 怠惰論法は人間にできることはないと言い、怠惰論法に反対する人々は人間は色々なことをしていると言う。このふたつの意見の分かれ道はどこにあるのだろうか。
 おそらく怠惰論法に反対する人々は物を手で押せば物が動くという身近な直観を元手にして生きているのであり、怠惰論法に賛成する人々はそういった直観に反対しているのだろう。暫定的な結論はこれである。

2025-11-17

 朝を寝ないで迎えた。特に理由もない徹夜なので、幾分か虚しい気持ちになった。
 朝食としてパンケーキと焼きそばを食べた。
 寝ていないので当然ながら、1限目に間に合うことはできた。車内でちょっと寝たので気分もだいぶ楽になった。
 2限目は何をしていたのかおぼえていない。たしか、レポートがあり、それをやってくるのを忘れていたので、先生にレポートの後出しが可能なのかといったことなどを訊いたほうがよかったのだが、めんどうくさくなって、やらなかった。
 図書館に行き、そこで丹治『クワイン』を読もうとするが、寝てしまう。記号-述語という名前はあまりにも冴えない名前でしっくりこないなあ、と夢見心地ながら思った。
 朝に起きれないことのひとつの理由として22時くらいを目途に帰宅していることがあるのではないか、早めに家に帰ったほうがいいのではないか、と思ったのでプリンを買って食べてから帰った。

 最近は暇なときに『一歩ずつマスターする論理学入門』の問題をやっていたりする。いまのところ命題論理の証明図を描いている。紙とペンがあればできる娯楽として良いが、私はルールに従って知恵の輪をガチャガチャやっているだけというか、なんでこういった操作が許されているのかはよくわかっていない。しかし、論理学は久しぶりにワクワクするものなので継続的に勉強していきたい。命題論理の証明図を書けるかどうかといったことで命題論理をちゃんと理解しているのかどうかが目に見える形で分かり、それが自分は理解しているのだという実感につながり、何事も理解することは楽しいので、楽しい!となっている。

2025-11-10

 今日の朝は寝ずに迎えた。
 朝食としてはパンケーキミックスがあったので、パンケーキをつくることにした。すこし前に朝食としてよく作っていたが、けっこう適当な出来栄えになってしまい、どうやってつくればよいのかをほとんど忘れてしまったことに気づく。「パンケーキたべたら甘い♪」と心のなかで歌いながらつくった。
 寝なかったことによって無事に1限に間に合うことができた。途中で乗る列車を間違えたかもとなったがなんとかなった。
 1限目が終わり、なんだかお米が恋しくなったのでおにぎりを食べる。
 2限目のことはあまりおぼえていない。
 3・4限目はサボった。お昼にうっかり寝てしまったというのもある。
 なんかしないとな、という思いで一冊を読みきるまで図書館に居座り、家に帰った。

 昨日の話の続きをする。
 ある理論が正しいとすると間違った結論が得られる。この間違った結論というのは道徳理論ならば、道徳理論が満たすべき基準を満たしていない結論ということになる。間違った結論を出す理論は修正されなければならない。同時にこの修正は最小限であったほうがよいという美徳がある、と思う。これは、理論の中核となる部分を変更するのは最後の手段であり、とりあえずは実践的な考慮といった理論の下流にあたる部分から変更していくべきだ、という意味だ。
 しかし、この美徳はどのような意味で正当化されているのだろうか。
 おそらく実践的なところから出てくるものなのだろう。
 まず、理論を全面的に修正することと理論を部分的に修正することを比べると理論を部分的に修正することで済むならばそのほうがよいという直観が私にはある。これはこれまで理論がそこまで問題なく通用してきたということから、理論が全面的に間違っている可能性は少ないだろうという推測をしていると言えるだろう。
 そして、こちらのほうがありえそうなことだが、理論が間違った結論を出したとき、間違った結論は理論のどこが間違っているかを示しており、間違った結論が指す箇所を修正すればよい、という場合もあるだろう。もちろん、間違った結論が指す箇所が理論の核となるところであれば、理論を維持することは難しいだろう。