2024-12-23

 日記を久しぶりに書いてみようと思う。今日は人と話したので気分が良い。とは言ってもあまり書くことはない気がないする。

 7:30くらいに起きて7:40くらいに出て、13:30くらいに帰ってきた。
 昼食はチャーハンを作って、食べた。チャーハンといっても、ご飯に卵を混ぜて焼いただけのもので、具材は入っていない。最初はボウルに冷やご飯と生卵にマヨネーズを入れて混ぜたものをフライパンで焼いていたが、最近は冷やご飯をレンチンして、先に冷やご飯をフライパンに入れて、あとから卵を入れると、チャーハンっぽくなる(具体的にはどの米粒にも引っ付いていない、小さい卵焼きの塊みたいなものができる。私としてはこれはとてもチャーハンらしい)ので、それをやっている。味付けはたまに創味シャンタンを入れたりする、あと、食べるときに塩胡椒を適宜にふりかけている。
 そのあとはスマホを触ったり、ゆらぎの神話に追記をしたりした。
 透明な血を受け継ぐ神々を魔路神群の従属神とみなした、とあるが、透明な血を受け継ぐ神々は中央大陸におり、魔路神群は本大陸にいるから、ヘンな気がしたが、本大陸の教王庁と中央大陸の反教王庁同盟の争いである千年聖戦があり、大陸の同士の交流はあったということで、そこまでヘンではないのか、となった。
 ゆらぎの神話はページを辿らないとよく分からないことがよくある。北方帝国が本大陸にあることも今日、知った。本大陸のページには北方帝国のことが書かれているけれど、北方帝国のページでは本大陸のことを言及していない、みたいなことがよくある。そういうこともあって、ゆらぎの神話の歴史・地理の全貌を理解していない。追記するときは関連するワードで検索して出てきたページだけを見ている。

 『情動の哲学入門』の第一部を読んだ。

  • 事物の価値的性質は身体的反応を通して感受される。そのとき、身体は媒体として透明になっている。身体に注目したとき、価値的性質は見えなくなる。
  • 価値的性質は事実的性質に付随しているが、還元されるわけではない。価値的性質は気遣いに依存しない。
  • 知覚によらず事実判断ができないように情動によらず価値判断はできない。
  • 情動と価値判断の二重過程理論

 といった感じの内容だった。正直、納得はあんまりできていないがおもしろい。
 読んだときはフィクションのパラドックスに対するひとつの解答になるのではと思ったが、違うような気がしてきた。

 スペースに入って、いろいろ喋ったりした。冒頭で人と話したというのはこのこと。

2024-12-03

 折れた矢、幻視、歯車、篝火という四属性による魔法の体系はどうだろう。

 後悔をしないわけではないが、無意味だと思っている。なぜなら、べつようであることはありえなかったからだ。別の言い方をするなら、今の自分が今の自分であるためには今までの自分がしてきたことが自分が今までしてきたことそっくりそのままでなければいけないからだ。何かをすればよかった、しなければよかったと後悔している時点で、それは自分の一部でそれをした自分、していなかった自分というのは存在しない。それをしていた自分、それをしなかった自分というのはもはや自分とは違う別人だからだ。
 そう考えてきたが、最近はあまりこの考えに自信を持っているわけではない。
 これは非同一性問題と言われるものに似ていて、非同一性問題を私はあまりよく分かっていないが、非同一性問題の仕方なさに何らかの欺瞞があるように思えるからだ。

 そういえば、ツイッターをやめてから、そろそろ一週間くらい経つのではないだろうか。といっても、毎日、ツイッターのことを考えているのだけれど。
 ということでツイッターのアカウントを復活させておいた。

 今日は、家に帰ったときに血縁の者たちがいたので2時間くらい?喋りながら飯を食べた。そのなかで、血縁の者1が男尊女卑は正しいというようなことを主張していたので話を聞いたり、遮って、お前の言っていることは間違っていると言ったりした。本人が認めるところによればモテたいということらしい。

ツイートの欄
- オール・ソウルズ・カレッジでは「ツイートの正当性を論じよ」という問題に答えなければならないらしい
- すみません、それを言うならスワンプマンではなくテセウスの船ではないでしょうか?
- 誕生日について嘘をつきまくっていたら、いつの間にか誕生日を泥棒できるようになった
- 自由意志について嘘をつきまくっていたら、いつの間にか自由意志を泥棒できるようになった
- 任意の学問の哲学の本を読むと、任意の学問の本を読みたくなるが、任意の学問の本を読んでいると任意の学問の哲学の本を読みたくなる。永久機関
- 『行為者因果を用いた経験値分配システムの提案について』
- しかし、生きるに値する生というのはどういう意味なのだろうか
- 異世界が遠未来であったときのつまらなさは世界が狭まることにあるように思う
- 厚めの背表紙が思ったより柔らかかったときのうれしさ
- music magic keep on calling←音楽 すっごく呼んでる?
- 月が綺麗で脛を死んでもい岩にぶつけた
- 失敗した記事にかなり元気を貰った
- ヤンデレや曇らせのこと、あまり分かっていない

2024-11-21

 日記に書くことがあまりないように感じるのはなぜだろう。
 今日の私は行動として見れば色々なことをしたように思える。
 少なくとも一日中布団の中にいたというわけではない。日記は行動の記録だけでは味気ないから、思ったことを書いたりしたほうがいいのだけど、私は今日一日何か考えたりすることなく過ごしたように思う。
 そういえば、「壊れてちゃいけないんだろうか」…外部への接続を阻む資本主義の「透明な檻」を昼休みに読んだ。
 あとはなんだろう。

2024-11-20

 スマホのメモ帳に書いてあったことをもとに日記を書く。
 6時半くらいに起きて、Beyond the Binaryを聴いて、爽やかな朝だなあと思った。
 とくにHi-Fiがすごい。
 小さいソーセージパンをひとつ食べて、ベーコンマヨネーズパンをひとつ食べて、マルゲリータ?のパンをひとつ食べて、ベーコンチーズエピをふたつ、朝食として食べた。どれも小さいものだった。
 私が私でしかないという非同一性問題、させる/させられないではなくただ起きるということ、血縁の者とのコミュニケーション、するべきであるのになぜしないのか。
 私に"雰囲気"があるのか。
 昼休みの時間になったので、フライドポテトをひとつ、チュロス5本、純水ぶどうを買った。
 駐輪場についての一連の思い出。
 哲学の文脈で真理以外についてインフレ主義/デフレ主義と言うことがあるが、どういう意味なのかいまいちわかっていない。普通に真理のインフレ/デフレ主義を理解すると自ずと分かることなのかもしれない。
 横になった。
 スペースに入った。肩書なし。
 スペースに入った。
 都市の中や外に墓地があることはよくあることだが、巨大な墓地のなかに都市があったらどうだろうと思った。
 夕食としてカレーを食べた。  

2024-11-13

 7時に起きた、ウィンナーパンを食べ、無糖のコーヒーを牛乳で割って飲んだ。
 竹村和子フェミニズム』を見てないなと思い、探したところ見つかり、また塾のカードが栞代わりとして挟まっていることに気づいた。
 良い感じの読み上げソフトがあればなあ、と思った。
 写真、髪と爪と肌。
 すこししゃべった。
 ほにゃにゃ。
 忘れていた。
 寿司を食べた。

2024-11-12

 今日は特に何もなかった。
 まず6時くらいに起きた。窓から空が見えた。スマホのアラームは設定しているが機能するかはその日による。というのも、イヤホンをつけたまま寝たりすると、アラームが鳴っても私を起こすほどの音にはならない。今日はイヤホンが外れていたのか、アラームは私を起こした。
 おそらく6時半くらいに布団を出たと思う。パンを一切れ、コーヒーも飲んだ
 今日は本を返す日だったので忘れず本をリュックサックに入れて、まだ読んでない本については貸出延長の処理をネットでして、外に出た。
 教室についたら、いつも通り、人は少なかった。そういえば、昔は早めに教室についてもすることがないからとギリギリに来ていた。
 最近、話を聞くようにしてる。そうすると気づくのだが、真剣に聞いている人は少ない。実際、退屈だと思う。
 席の移動があったが移動せずにいると私の席に移動するはずの人が別の席に座った、なので私は席の移動をせずに自分の席に座った。
 センセーが自由意志?の話をしていた。私は一度も選択をしたことがないが?と思った。
 昼休みになって、弁当を食べた。上手く食べれたと思う。
 パズルをした。悪い警官・良い警官かと思った。
 なにかに写真が必要らしいので撮ろうと思ったが、けっきょく撮らなかった。その話になったとき、忘れかけていた身体を思い出した。
 本を返して、また新しく借りた。
 話を聞いて、そうではないだろと思いながら、何も言わなかった。今日中に提出せよとの紙が渡されたが、全くそのようなことをする気にはなれないので、紙がないことにして、紙をもらい、その場で書いて出した。生気が弱まっているのかと心配になったが、ひとつのツイートをして、そこから心配が消えた。
 家に帰り、呪いの板をいじいじしたり、マイクラをしたりして、風呂に入って、いま。
 たいして何かを考えたりすることもなく、生きている。

2024-11-07

 とりあえず、とにかく嘘でもいいから日記を書こうと思う。

 7時くらいに起きた。2切れのパンといくつかのソーセージを苦いコーヒーとともに呑み込んだ。そのコーヒーは昨日に買ったばかりの紙パックのコーヒーで、昔?はよく買っていた。味に親しみのない新しいコーヒーを飲むと、たいてい苦いと感じるが、毎日飲んでいると慣れて、苦みが感じられなくなることは知っていたが、久しぶりに思い出した。
 家を出ると、外は寒かった。うれしいと思うことにした。少なくとも暑すぎるよりはよいはずだった。
 受験という雰囲気はすでにできていた。私はそこにのれていないと感じていたが、意識的に考えないようにした。
 メモには「出せやいと言われた」とある。
 『42』という映画を見た。あらすじを見て、能力主義が偶然、人種差別に反対するような形をとっていただけではと思っていたが、それだけではないかもしれないと見て思った。論点を整理できていないし、歴史に詳しくないので、ある程度のことを知ってから、もう一度口を開きたいと思う。
 友だちと会話をした。どういうノリで喋ればよいのか分からなくて、ヘンな雰囲気になってしまったかもしれない。
 ブロッコリーは苦く、硬かった。今の私にとってはその苦さはコーヒーとつながっている。
 昼休みに「自炊できない」のは果たして真に「恥ずかしいこと」なのか…「自炊せよ」というプレッシャーの不思議さを読んだ。どうでもいい話だが読むまで電子化の話だと思っていた。また、他人の「丁寧な暮らし」を見たときの焦りと憧れ…その「意外な正体」を読んだ。日記も同じだと思った。
 各駅停車の電車の中でジョセフ・ヒース「イデオロギー論の諸問題」(2001年10月1日)を読んだ。友だちにリンクを送り付けた。
 すれちがった。
 板に呪われていると思った。外の世界は私とは無関係に動いていくのに、身体は心がなければ動かないように思えるのはなぜだろうと思った。心は物質に還元か消去されて因果の連鎖に組み込まれるのだと思った。人がいることが想像されうるが無人の空間のことを思い浮かべようとした。心象風景のようなものがあればいいと思った。
 何かを言われると思っていたが、何も言われなかった。
 無意味な?感傷を捨て、自己責任論によって力強い当為を導出して、進捗をいっぱい生み出したいと思った。
 公園によってそこで、スペースで人と喋った。また、帰ってご飯を食べたあと、スペースで人と喋った。